川端康成略史(4)

时间:2025-04-03

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と、作者のモチーフの根底に、他者への無私の感謝をひそめていたことを、作者自身告白しています。

9.「伊豆の踊子」の作者であること

作者は次のように述べています。

「伊豆の踊子」の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう。

「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。

「伊豆の踊子」は私には稀なモデル小説である。「雪国」もモデル小説とされているようで、作者がそれを頭から否定するのはまちがいであろうが、私はモデル小説とは思っていないところがある。少くとも「伊豆の踊子」のようなモデル小説ではない。

「伊豆の踊子」では「雪国」ほど、モデルにたいしておのれをむなしゅうはしていない。

「伊豆の踊子」よりもなおモデルに忠実な私の小説に「名人」がある。これこそ私が見たまま感じたままの忠実な写生にもとづいている。「名人」では作者は首尾観察者、記録者であって、おのれをまったくむなしゅうしているかのようである。したがって「名人」の「私」を私として論じた評家はほとんどない。それを最も論じてくれたのは胡蘭成氏であろうか。「一中国人が川端文学をかう読む」と題する、原稿紙二十四枚におよぶ随想をおくられたのは、三月ほど前であった。「伊豆の踊子」、「名人」、「雪国」にも言及されているが、作者の「私」がおのれをむなしゅうすることに、東洋の風を見るという。

しかし、私は胡蘭成氏の見解にあまえるわけではなく、小説家としての私の資質に疑いは絶えないのであって、「伊豆の踊子」、「雪国」などの作品の運のよさの、羞恥、苦渋にさいなまれがちである。齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。

(「一草一花」より)

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