川端康成略史(3)
时间:2025-04-03
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であるかが際立ってきます。
しかし「私」は声高かに差別に対して反論したりしません。
山本健吉氏の評論によると、
「そのような立て札は、本当は村々の貧しさをも物語っているが、その反面の真実はここでは切り棄てられる。村々から拒まれた「物乞い旅芸人」の世界のあわれさが、ここでは抒情の種になる。」
7.「いいえ、今人に別れて来たんです。」
「私」は船の中で、同室の少年のマントの中にもぐり込んで泣きます。
氏は「私が二十歳の時、旅芸人と五、六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。」と言っています。
「私」は、自分をゆがんだ人間、小さな殻に閉じ籠ったいじけた人間と自己嫌悪すると同時し、少年らしく甘えている感傷を抱えていました。
そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。
「感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」と氏は述懐しています。
「下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」(「湯ヶ島の思ひ出」より)
8.「伊豆の踊子」の創作動機
氏が「伊豆の踊子」を書いたのは大正十五年ですが、その原型となっているのは大正十一年に書かれた「湯ヶ島の思ひ出」です。
その内容の大部分は、茨城中学の寄宿舎で同室していた清野少年に対する同性愛の思い出で占められ、その残りが踊子との思い出です。
大正十一年は氏にとってどのような年だったのでしょうか。
その前年、氏が二十三歳のとき、あるカフェの女給をしていた十六歳の少女と恋愛をし、菊池寛の好意で家も生活費も手に入れ、まさに同棲生活の準備の整った直前に、相手の不可解な心変りで、あっけなく、わけも分らず別れてしまいます。『湯ヶ島での思い出』を書いた頃は、その恋愛が破局に到った直後の、心にもっとも打撃を負っていた時で少年時代の同性愛の相手や、ほのぼのとした愛情を掻き立てた伊豆の踊子を思い出すことで、心の傷をいやそうとしているようです。
氏は『全集』第二巻のあとがきに以下のとおり書いています。
「『伊豆の踊子』でも『雪国』でも、私は愛惰に対する感謝を持って書いている。『伊豆の踊子』はそれがすなおに現われている。『雪国』では少し深く入って、つらく現れている。」
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